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福岡藩、五百四十石の大武将の孫娘として生まれた。女学校時代、西南学院生みの親・ドージャー夫妻に音楽を学び、東京音楽学校(現東京藝大)声楽科に入学。卒業後、ただちに山田耕筰の抜擢を受け、やがてフランスに留学。日本人としてはじめてパリで日本の歌をうたってデビュー。帰国すると、日本へフランスの歌曲の数々をはじめて紹介した。

 

彼女の交友関係は広い。山田耕筰の恋人と噂され、与謝野晶子ら「明星」の歌人たちと親密な文学的交流をし、深尾須磨子らと親密な文学的交流を展開。市川房枝の信望を得て、婦選運動にも関わった。

フランス帰国後は60人に及ぶ、多くの若い音楽家を支援。橋本国彦、清瀬保二、箕作秋吉、宮原禎二などなど。ブルースの女王、淡谷のり子も東洋音楽学校時代、荻野綾子の強いすすめでピアノ科から声楽科へ移籍し、彼女の指導を受けている。日本の西洋音楽輸入史に残した荻野綾子の功績は偉大である。しかし戦争末期1944年に没したため、社会の混乱の中で忘れ去られてしまい、今、彼女を語る人はほとんどいない。

 

日本の音楽史上、忘れてはならない荻野綾子。没後70年の今、彼女にオマージュを捧げたい。よみがえれ!荻野綾子――と。
 

まぼろしの歌姫・荻野綾子  

明治31年(1898)~昭和19年(1944)

 

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